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ドイツ語 いつも待ったなし

YouTubeチャンネル「ハーフ・タイム」へ出演したRoman Weidenfeller氏(元ドイツ代表、ボルシア・ドルトムントGK)の通訳を担当 ©️SOCCERKING

 オンラインサロン「モダンなサッカー指導 〜世界基準を目指して〜」でサロン会員へ隔週メールマガジンを配信しています。メルマガには「健二がゆく 〜志士迷走記録〜」なる自叙伝を綴っていて、ドイツに滞在した16年間、私がどうサッカーと向き合っていたのか?その暮らしぶりをそのまま書いています。

 

 最近書いたメルマガの中で、ドイツ語の習得に関することを書きました。そこからいろいろなことを思い出しました。ドイツ語の勉強に関しては、一生懸命やったというよりは、常にドイツ語で対応しなければならない状況が目の前にあり、それと取っ組み合いを繰り返していたという方が真実に近いだろうと思います。

 つまり、いつも苦しかったが、だからこそ通常よりも高く(ドイツ語の)山を登れたのだと思います。

 

 実績として挙げられるのは、簡単な証としてはドイツ語の試験に合格することができました。私は2015年10月に日本へ帰国しましたが、その帰国間際の2014年12月にGoethe Institut(ドイツ語を世界へ広めようとする団体、本社はミュンヘン)の試験を受け、レベルB2に合格しました。

 日本へ帰国してからは2017年12月に、ドイツ語技能検定試験で準1級を取得しました。

 

 ドイツサッカー協会の指導強化DVD「『ボールを重視』した守備(ジャパンライム株式会社」と育成図書「ジュニアサッカー指導の手順と練習法(東邦出版)」を翻訳しました。

 またサッカー関連では、ブンデスリーガ公式ホームページ日本語サイトの編集者を、シーズン2013/14務めていました。

 

 日本へ帰国してからは通訳業として、上記のローマン・ヴァイデンフェラー氏がSOCCERKINGのYouTubeチャンネル「ハーフ・タイム」へ出演した際の通訳やトーマス・シャーフ氏(下の写真、右)が高校生を対象にクリニックを行なった際などの通訳もしました。

 その他K-1のヨハネス・ヴォルフ選手(二つ下の写真、右)やデニス・ヴォーズィック選手の記者会見などの場で通訳を行いました。

 

東京スポーツレクリエーション専門学校主催の高校生を指導する「プロを目指す高校生集まれ!!」でThomas Schaaf氏(現役時代はSV Werder Bremenで奥寺康彦氏と一緒にプレー、指導者としてはブンデスリーガ制覇とドイツ杯優勝のダブルを達成)の通訳を担当 ©️StudioLife

K-1のドイツ人選手Johannes Wolf、公開練習や前日公式計量などの記者会見で通訳を担当

 さらには、リオで開かれたパラリンピックで砲丸投げで金メダルを獲得したニコ・カッペル氏がWOWOW「Who I am」のトークショーに出演した際の通訳も務めたことがあります(下記のYouTube動画を参照)。

 

 テレビやラジオのCMにおいては、「TOYOTA Racing Team GAZOO」や「三菱地所と次に行こう。」の制作にドイツ語の翻訳者として参加しました(下記のYouTube動画二つを参照)。

 テレビCMトヨタの「GAZOO」では、佐藤健さんの会話の相手となっているニュルブルクリングの神の声(?)のドイツ語の台詞を担当しました。ニュルブルクリングは、ドイツの有名なサーキットの名称です。

 テレビとラジオCMの三菱地所の「三菱地所と次に行こう。」では、高畑充希さんの台詞の中に使われているドイツの文豪ゲーテの言葉の解釈について、どこまでCMの意図に沿った解釈が許されるかについてスタッフへアドバイスをおくり、適切な台詞を探すため一緒にアイデアを出し合いました。

WOWOW「Who I am」のトークショー に出演したリオ・パラリンピック砲丸投げ金メダリストのNiko Kappel選手の通訳を担当

テレビCM「TOYOTA Racing Team GAZOO」の佐藤健さんと話す神の声の台詞の翻訳(日本語→ドイツ語)を担当

テレビCMとラジオCM「三菱地所と次に行こう。」の高畑充希さんの台詞の中にある、ドイツの文豪ゲーテの言葉の解釈についてアドバイスを担当


ドイツ語とがっぷり四つ相撲


 実績を列挙し、最初からまるで自慢のために書き出したようなブログになってしまいましたが、決してそれを狙ったものではありません。ドイツ語絡みでたどり着くことができて、作品として残っていて皆さんへお見せすることができるものを単純に集めてみました。

 そして、これ以外にもドイツに滞在していたとき、触れ合ったドイツ人たちと緊密な関係を持てたことが、ドイツ語の実績の何よりの証となると考えています。

 日本へ帰国後もお付き合いのあるドイツ人が居ることを、そして指導者ライセンスの更新講習などでドイツへ行けば再会して楽しい会話を繰り広げられる友人や知人が居ることを、とても嬉しく思います。

 

 少々手荒い表現になりますが、ドイツに滞在した日本人のタイプは大きく分けて3つに分類することができると思っています。

 一つは、上の見出しにもありますが「ドイツ語に真正面から取り組んだ人たち」。そしてもう一つは「ドイツ語から逃げ回っていた人たち」。三つ目は、前出の二つのタイプの中間のタイプになります。

 

 自分は最初の「ドイツ語に真正面から取り組んだ人たち」のタイプであり、正直ドイツに滞在した16年間、常に目の前にあるハードルが上がり続け、後から思えばずっと辛いばっかりでした。

 ともかく意思や情報や感情を、ドイツで通じる言語(ドイツ語)へ日本語から信号を変換して、発声するか、書くことをしないことにはドイツ人とのコミュニケーションは成り立ちません。

 

 イェス(ドイツ語ではJa)かノー(Nein)を答えないと目の前のシチュエーションを前に進められない。ドイツ語できちんと表現できるかどうかわからないけれども、選手へサッカー的、時に人間的に助言を与えないといけない。

 もっと切実だったのは、滞在許可を取得しなければならない外国人局での職員とのやり取りなど、常にどうでもいい会話などなく、そのシチュエーションをなんとかするために知っているドイツ語を並べ立て、なんとか自分の考えていることを相手に伝えようと努力し続けました。ともかく、それをやり続けるしかありませんでした。


ハードルは常に上がり続けた


 ドイツに滞在した16年間を振り返ると、7段階に分けられると思います。詳細に綴ると複雑になるためここではすべてを書くことは避けることにしますが、あらましを書いてみます。

 

 第1段階はドイツのペンツベルク市へ渡ってすぐの期間、ミュンヘンの語学学校へ通いながら、小学校5、6年生のチームを指導していた頃。並行して指導者ライセンスの勉強、バイエルン州サッカー協会の講習会へ参加しました。

 この頃は、自宅の電話が鳴ることが怖くて怖くて、ものすごく緊張して受話器を持ち上げていたことを忘れません。

 語学学校のクラスメートは全員外国人、それもドイツ以外の国の人たちばかり。とは言え彼らともドイツ語で話すことができ、不思議な感じがすると共に、とても楽しくおもしろいと感じていた時期でもありました。

 

 ドイツでの滞在が1年に達する直前、『ドイツ語をドイツ語で(そのまま)返せばいいのか?』と思った瞬間がありました。どういうことか?と言うと、こういうことです。それまでドイツ語を聞いたり見たり自分へインプットした後、日本語へ翻訳して、その文章の意味を理解していました。そして自分の回答を考え、まとまった日本語をドイツ語へ変換しいき、発言するか書き出していました。

 しかし、これだとドイツ人が繰り出す発言に追いつかない。ある時、近道を通る体験がありました。それはつまり、日本語へ翻訳することなく、ドイツ語で受けてドイツ語で返してしまうことでした。この方が簡単であり、しかも速い。一つの極意に出会った瞬間でした。

 

 第2段階は、ペンツベルク市から北ドイツのブレーメン市へ移ってからの半年間。SV Werder Bremen U16のコーチとなり、選手の多くがプロ選手を目指している中、その選手たちとどう向き合っていくのか?が、より強く問われました。そのための道具は、やはり「ドイツ語」でした。それまでよりも、より多く話すことはもとより、より的確な言葉で表現しないと、彼らに対抗できないという環境に飛び込んだ感じでした。

 

 練習と試合が終わるとU16の監督と一緒にクラブハウスへ行き、監督はウィスキーをストレートで水をチェイサーにして飲み、私はブレーメンに工場のあるビールBeck'sを瓶のまま飲みました。最初にクラブハウスで注文したときにグラスをお願いしたら、「お前はグラスで飲むのか?」と言われたことを今でも忘れません。

 そして1本目を半分も飲もうものなら、次の1本が運ばれてきて、クラブハウスの主人から「早く飲み干せ。次のを持っている俺の身にもなれ。腕が疲れる」と言われました。そして、2本目を飲んでいる最中に3本目が出てきて、の繰り返しでした。自分で払ったのはいつも最初の1本目だけで。誰が奢ってくれているのか?謎でした。

 ここで言いたいのは、まだまだドイツ語がおぼつかないため、誰が自分に奢ってくれていたのか?を突き止めることができませんでした。のちに休暇を利用してブレーメンを訪れた際に、やっと誰が奢ってくれていたのかが判明しました。

 言葉ができないと視野が狭まってしまうことに、気づいた瞬間でもありました。

 

 この後私は経済的な理由により、約1年間日本へ戻りました。次なる第3段階はブレーメン市の日本料理レストランでの雇用が決まり、再度ブレーメンへ戻ってから丸々1シーズン過ごした時期になります。

 レストランではコックとして働きましたが、同僚にはドイツ人もヨーロッパ出身の各国の人たちも居て、当然公用語はドイツ語であり、ここでもコミュニケーション能力が問われました。

 

 サッカーの方はSV Werder Bremen U13コーチ、U14〜U12コーディネーションコーチ、U9監督をクラブ側からの要請で同時に引き受け、サッカー的にはドイツ滞在中一番輝かしい期間でした。

 しかしながら、U13、U14、U9、選手は皆それぞれプロ選手になることを強く意識していて以前に受け持ったU16同様に選手と接することは大変でしたが、ここでの大きな問題となったのはU9の保護者たちでした。

 その保護者一人ひとりと対決するとき(言葉は荒っぽいですが、あくまで口論です)、自分のドイツ語能力をすべてつぎ込んでも足りず、それでも理論的に納得させなければならない状況で、まさにドイツ語の海で溺れかけながらも必死に闘った感じでした。

 

 第4段階はブレーメン市から再びペンツベルク市へ戻り、FC Penzbergで指導者だけでなく、会員総会の選挙を経て育成部長を務めたことが、これまた大変なことでした。

 育成部長は19歳以下の7つのユースチームを統括し、ユースチームのための銀行口座の管理に始まり、コーチ会議の開催、年次会員総会での報告、そして冬季に開催する2日間のミニサッカー大会(Hallenturnier)の責任者を務めなければなりませんでした。

 この辺りからの特徴として電子メールが普及してきたことから、選手、同僚のコーチ、保護者などとテキストを介してコミュニケーションを取ることが増えました。ただ、自分は書くことは元々得意でしたし、会話は単語や表現方法がわからないと詰まって沈黙となってしまいますが、メールであればいくらでも辞書を引けるため、それほど苦ではありませんでした。

 しかし、後になって振り返れば、このメールやSMSをたくさんやり取りし、果てはコーチ会議の議事録をまとめたことなどが、後々ドイツ語をより良く使えるようになった元になっていたと思います。

 

 第5段階は、指導するクラブをミュンヘン東部のSV Heimstettenへ移した時期。U19の監督を引き受けました。女子だけのクラブFFC Wacker Münchenで、4部リーグを戦う2軍チームの指揮を取りました。

 第6段階はスポーツテレビ局Sport 1に雇用され、ブンデスリーガ公式ホームページ日本語サイトの編集者を務めた時代になります。

 そして、第7段階はその後の帰国までの期間。この期間だけは唯一、ドイツ語で苦しむことはもうありませんでした。

 

 もうくどくなっていると思いますので、最後の3段階に関しては、ここでは割愛させていただきます。

 

 最後に付け足しておきたいのは、いつからだったのか?はっきりとは覚えていませんが、文の中の単語の語順についてはドイツ人がどう言っているのか?を思い出しながら、何度も何度も違う言い方を頭の中で繰り返してみると、正解がわかるようになりました。これはまさに16年間ドイツに居たからこその効果(産物?ご褒美?)だと思います。

 ドイツから帰国してもうすぐ5年と9カ月経ちますが、ドイツ語でしか見たことのない映画がまだまだたくさんあります。

 ドイツのテレビのゴールデンタイムは20時15分、そこから始まる映画をサッカーの練習のない日は毎日のように見ていました。その映画が終わると次の映画が、だいたい22時10分くらいから始まります。映画を連続して見るのも、平均して週に2回くらいあったと思います。

 


堂々と話すこと それが秘訣


 以上にまとめたように、常に私が持っているドイツ語能力以上のものを求められ、喘ぎながら突き進んできたのが実際の姿でした。渦中の自分はいつも溺れそうでしたが、落ち着いて目をしっかりと開けて事実を見つめ、相手の言葉に耳を澄まし、有意義な会話を築いていくように努力し続けました。その積み重ねが、自分のドイツ語能力になっていったと考えています。

 

 もしこれからドイツへ、あるいは外国へ行くことを考えている人がこれを読んでくれていたのであれば、あなたへ贈りたい言葉は「間違いを恥ずかしがらず、置かれている状況に怯むことなく、堂々と話してください。その積み重ねで、やがて道は必ず開いていきます」です。成功を祈っています。頑張ってください!