第1話【立志編】 1週間の指導者研修ドイツ・ツアー


店主 坂本健二のドイツでの挑戦の記録 16年間の軌跡を時系列に沿って紐解いていく


1994年8月28日 イッフェルドルフ村のホテルの前で、ミュンヘン空港へ向かう出発前に参加者全員でパチリ
1994年8月28日 イッフェルドルフ村のホテルの前で、ミュンヘン空港へ向かう出発前に参加者全員でパチリ
 ドイツからの帰りの飛行機の中、ツアー参加者へ恒例のアンケートが配られた。フランクフルト空港を飛び立ってからもう数時間経ち、食事を終え眠りにつく人もちらほら現れていた。  

 アンケートに答えるのがことのほか好きな坂本は、少し眠い気持ちを抑えながらバッグの中からペンを探し出し、答えを記入していった。

 

「今回のツアーは、満足されましたか?どんな点が良かったと思いますか?」

「次に参加するとしたら、どんなことを期待されますか?」

 

などありきたりの質問が続く。そして最後に

 

「何でも構いませんので、感想などを自由に書いてください」

 

とあった。一旦は躊躇したものの、坂本は一気に書き始めた。「今回の研修旅行を経て、自分もドイツでサッカーの指導者ライセンスを取りたいと思います」と。

 書いている本人、書いていることに現実性がないことはわかっていた。ただ正直な気持ちを、アンケート用紙へ記したいとだけ思っていた。
 アンケートは、1週間のドイツへのサッカー指導にまつわる研修旅行についてだった。とあるビデオ制作会社が会社設立40周年を記念してサッカー指導者を集いドイツへ連れて行き、現地でドイツ人講師から講義と実技のレクチャーを受けるという企画だった。
 そのほかブンデスリーガや4部リーグの試合などの観戦、FCバイエルン・ミュンヘンやTSV1860ミュンヘンのプロの練習の見学、その下部組織の練習見学、一般的なクラブでの練習見学などと、まさにサッカー漬け、怒涛の1週間であった。

FCバイエルン・ミュンヘンの練習 就任したてのトラパットーニ監督が指揮を執る。中央手前は、加入したばかりのフランス人FWのジャン・ピエール・パパン。鹿島アントラーズで活躍したジョルジーニョも練習へ参加していた
FCバイエルン・ミュンヘンの練習 就任したてのトラパットーニ監督が指揮を執る。中央手前は、加入したばかりのフランス人FWのジャン・ピエール・パパン。鹿島アントラーズで活躍したジョルジーニョも練習へ参加していた

 現地には既にサッカー指導者を目指し、指導者ライセンス取得に向けて勉強中の日本人が、講師を務めたドイツ人指導者ペーター・ケーニッヒの家に居候していた。

 その日本人、小川秀樹は、まだ16歳という若さでドイツへ来て、生活していた。

 

 今回の研修旅行中多くの時間で彼は通訳を引き受けてくれたが、資格取得を目指しているだけあり、その通訳は的確でまったく淀みのない素晴らしいものであった。講義や実技において、彼が日本語へ訳してくれた説明は、とてもわかりやすいものだった。

 

 彼の素晴らしい通訳に惚れ惚れとした気持ちになると共に、坂本は『いつか俺も挑戦してみたいな』という思いがぼんやりと頭の中に浮かんでいた。

 機内で書くことになったアンケート、別段そんな個人の志を書き込み公にする場所ではないことはわかっていたが、なぜか坂本は正直に書いてみたいと思った。

 

 このツアーが実施されたのは1994年8月21日~29日、そう前年の1993年には「Jリーグ」が設立され、日本で初めてとなるサッカーのプロリーグが開幕していた。

 このJリーグの存在は坂本にとって、とても大きなものだった。それはJリーグチェアマンの川淵三郎さんが説明した「設立の主旨」が、坂本のずっと頭にあったものとまったく同一のものだったからであった。「地域に根差したスポーツクラブを目指す」、それはかつてダイヤモンドサッカーというテレビ番組の中で、解説の岡野俊一郎さんが話していたこととまったく同じだった。

 

 「ヨーロッパや南米には、地域スポーツクラブというものがあります。例えば、あるクラブのサッカーのトップチームがヨーロッパで優勝して、5000万円の賞金をもらったとします。そして翌年もまた優勝、2年で1億円を稼いだので、体育館を建てることにしてバスケットボールと卓球の部門を新たに立ち上げることにした。そんな感じで地域スポーツクラブは発展してきているんです」、そんな説明が放送されていた。当時の坂本は、まだ中学生だった。


ミュンヘン対市川 完成したばかりのミュンヘンのシュポルトシューレ・オーバーハッヒングで、小学生のドイツ対日本の試合を観戦。右奥には日本サッカーの父、クラマーさんも一緒に観戦。
ミュンヘン対市川 完成したばかりのミュンヘンのシュポルトシューレ・オーバーハッヒングで、小学生のドイツ対日本の試合を観戦。右奥には日本サッカーの父、クラマーさんも一緒に観戦。

 『そんな地域スポーツクラブは、日本にも絶対に必要だ。いつかそれに関わることをやりたい』と強く誓っていた。

 そう真剣に考えてはいたが、その頃の日本にはまだ「地域スポーツクラブ」の「地」の字もない時代。坂本の描いた夢は「夢は夢で終わるもの。ずっと思い描くけれども、おそらく一生実現することのないもの」という位置付けへといつしか変わっていた。

 

 話を戻そう。Jリーグチェアマンの川淵さんと同じ志を持ちながらも、それに対して何の準備もしていなかったことに初めて気づいた坂本は、戸惑った。何しろサッカーのプロリーグなど立ち上がろうなどとは、誰もが想像していなかった。そしてさらに、それは地域スポーツクラブであり、地域に根差した活動をしていくことを目指すことなど。

 

 『俺、何しよう?グラウンドキーパー?クラブのフロント?どれも、まったくやったことがない』、自分の夢に対して何も準備してこなかったことを思い知らされると共に、大いに後悔した。

 後から思えば奇妙だが、ドイツへの旅行に参加する1年前、1993年に坂本はひょんなことをきっかけにして、小学生チームのサッカーの指導を始めていた。    つづく


デットマー・クラマーさんと初対面 完成したてのシュポルトシューレをクラマーさんも偶然見学に訪れていて、一緒に写真に収まってもらう。「ちゃんと撮れたか?」と、撮影の直後に聞いてもらえたことを忘れない。『「紳士」とは、こういうものだ』と感激した瞬間だった。 (のちに彼の家に2度もお邪魔することになることなど、このときの坂本にはまったく知る由もないことだった。)
デットマー・クラマーさんと初対面 完成したてのシュポルトシューレをクラマーさんも偶然見学に訪れていて、一緒に写真に収まってもらう。「ちゃんと撮れたか?」と、撮影の直後に聞いてもらえたことを忘れない。『「紳士」とは、こういうものだ』と感激した瞬間だった。 (のちに彼の家に2度もお邪魔することになることなど、このときの坂本にはまったく知る由もないことだった。)